それでは、第一分科会よりご報告させていただきます。その前に、テーマについて少しく、私の考えを述べさせていただきたいと思います。

この「生命の尊厳」というテーマは、広大無辺ともいえる大きなテーマでありまして、とうてい短い時間で語り尽せるものではありません。また、これは各教派の教えの根幹である世界観や死生観にかかわる深遠な問題でもありまして、ご報告するにもなかなか困難が伴います。さらに、「生命の尊厳」というテーマは、物みな生命ありとする神道的見地から考えますと、当然、環境問題も含まれてしまうことになりますが、ここでは人間の生命の尊厳に絞って考察した次第であります。

私たちは、「人の命」を、その誕生から死に至るまで、三つの視点、即ち、生まれる−生きる−死ぬ、という人類最大のテーマについて、三点にわけて考えてみたわけであります。そして、それをトータルに考察をいたしました。

まず「生まれる」ということを考えています。人間が生まれるというのは、どういうことなのか、また生命の誕生といつ指して言えるのでしょうか。古代の日本人は、この世に存在するすべてのものが、天地合体、むすびにより生成されたと考えておりました。大地は生命の根源でもあり、天の力、神気と結合したとき、初めて豊かな生産力としての力を発揮し、物事を展開し、新しい生命の生成を示して、その陰にある神の働きを意識してきました。まさに、森羅万象すべてに神の気が宿るとした汎神論が展開されました。このように科学的にもうなずける、天の力、太陽とエネルギーと、物質循環の恩恵に浴す大地の生命力が一体となって、新しい生命を生み出すという考え方を、日本人は古くから持っておりました。

もちろん、人の命もそうした考え方に添って育まれてきたと言えます。分科会で。あるメンバーの方から、貴重なお話が披露されました。それは、出雲地方では我が家の嫁が妊娠した時に、「うちの嫁さんのお宮さま(子宮)に日が止まった」‥‥という表現で家族中が喜ばれるとのこと。お宮に日が止まるとは良く言ったもので、まさに生命の誕生は、この表現にある如く「神が宿る」というこの一瞬にあるのではないでしょうか。しかるに、最近の世相ではこうした考え方がもはや死言に近いほどになって、若い夫婦の間では「子供をつくろうか」「ああ、できちゃった」‥‥といった会話が平気で飛び交います。さらに恐ろしいことに、いろんな理由があるにせよ、既に母親の胎内に宿った小さな生命を人工的に中絶するという大問題が、今日の社会的現象として私どもの眼前に大きく、そして重くつきつけられております。そうした現実をふまえて、私たちは宗教的に神道的にいま一度、生まれるというテーマにつき真剣に討議を進めている現況であります。

次に、「生きる」について考えます。最近の国勢調査の結果によると、我国の男女を含めて世界で平均寿命が最も高い国となりましたことは、衆知の事実です。あの戦後の荒廃から立ち上がって五十年余、ついにここまできたという意味でそれ自体は大変喜ばしいことなのですが、反面、長寿国になったがゆえに老人問題という厳しい現実が迫っております。それに加えて、科学技術の進歩と共に医療分野においては脳死、臓器移植、延命治療、尊厳死、果ては遺伝子組み換え等々‥‥何やら人間の生命の尊厳に関わる大問題が取り沙汰され、大きな社会問題となっております。

そもそも、生きるということはどういうことなのか。そこでまず考えなければならないのは、人間と自然との関係であります。神道は、もともと単なる自然崇拝ではなく、自然との調和に生きる宗教であると言えます。したがって、少しつっこんだ言い方をゆるしていただけるなら、人間は神慮、即ち神のはからいのもと、自然の中に生かされて生きているという事実であります。このことは、宗教に携わる私共としてはごく自然の認識として存在しています。しかしながらややもすると、宗教家は一つの宗教の教義によって生命のことをごく安易に判断をしてしまう。一つの疑問も持たずに、それを受け入れてしまうという趣があることも事実です。私たちの周囲には、宗教に携わる人々、そして無神論者もいる。あるいは科学者の方々もいる。そういうなかで対等に話せるということは、まず宗教者が自分の持っているものを心に秘めて、一般の土俵の上でそのお話をしていくことが必要なのではないかと思います。

人間も本来自然の一部であります。しかし分明の発展につれて非情に反自然的になってしまったことが、他の生物とははっきり違うところであります。だからこそ、私たちはあえて今こそ自然との調和、自然との共生、生かされて生きるという意味を真剣に考察しなくてはなりません。

最後に、「死ぬ」というテーマです。最近の宗教界において「霊性の回復」という言葉が話題にされます。人が亡くなるとその魂が神性、あるいは仏性となって神界または霊界に登り永遠に生き続けるという考え方があります。それゆえに、死亡した時の葬儀の重要性はもとよりですが、その後の霊祭や法要の営みの大切さは言を持ちません。

本年、教派神道連合会結成百周年を迎えた私たちですが、その教派連の中に数年前から教派神道連合青年会議という組織が誕生し、各教派の青・壮年層からなる会員の皆様方と共に宗教に携わる青年層として、種々の活動を展開してまいりました。その中の重要なる活動の一つとして、毎年三月十日の東京大空襲で犠牲になられた戦没者の慰霊祭を執行させていただいております。とくに本年は終戦五十年ということで、今夏に厳粛なる慰霊祭を併せて執行いたしました。そうした行事を重ねるにつけ私たちが思うことは、まさに「霊性の回復」というものがいよいよ大切であるとする認識であります。

古来より我国には「一寸の虫にも五分の魂」という諺があるように、物には生命がある、その生命の奥には霊性が宿っているという文化の流れがあります。テレビや各種メディアの一部には、この霊性という問題を、ただ興味本位のみに取り上げるという傾向が多いのは、宗教に携わる者としてまことに残念に思えてなりません。

生命の尊厳とは、まさに霊性の尊厳であります。戦争による甚大なる人命の損失、後進諸国の貧苦による飢餓、先進諸国での交通事故死、病死、殺人、そして自殺等々‥‥。私達を取りまく社会には、生命の尊厳を脅かす限りなき要因が横たわっています。

「生命の尊厳」、生まれる−生きる−死ぬ、というこの人生最大にして永遠なるテーマを考察する時、私たちはあまりにも大きな問題につき当ります。その根底にあるもの、それはこの社会において人工環境の文化が栄えつつあるという事実です。自然との共生をないがいしろにしているツケは、いままででは地域的なレベルで起きていた文明の興亡が、全地球的なレベルで起こる危惧さえあります。自然を畏敬し、自然の恩恵を受け、自然へ感謝を捧げ、自然の中に神を見つめる祈りある神道の思想と、その実践が今こそ期待されている‥‥ということを申し添えまして、ご報告することがまとまってはおりませんけれども、皆様方のお考えの中に置いていただきまして、またいろいろのご意見、ご指導を賜りながら進めてまいりたく思います。(拍手)