環境につきましてのご報告を申し上げます。

環境と人間ということについて考えますれば、人間は生きるためにいつでも環境をいじくってきた、操作してきたということが言えるわけでありまして、またある意味で、人間は環境を破壊しなければ生きていけない存在であるということを、分科会でまず確認いたしました。

しかしながら、そういう環境をいじくると言っても、工業社会以前、いわゆる農耕社会、あるいは狩猟社会という時代においては、破壊も天地自然との調和が保たれていた。あるいは、破壊と回復力という、拮抗するもののバランスがとれていたと考えられるわけであります。

まぁしかし、焼き畑農業というような農法によって文明が滅びたということもあるわけですから、一概に均衡が保たれていたとは言えないかもしれませんが、おおむね工業社会以前においては、天地自然の循環のリズムとか、あるいは破壊と回復のバランスがとれていたということが言えるんじゃないかと思うわけであります。

ところが、十八世紀末にイギリスに起こりました産業革命、あるいはわが国で言えば明治維新以降、工業社会が展開することによって、この破壊の速度は加速度的に進むようになったわけであります。

この破壊の事実につきましては、既にいろいろな研究もありますし、いろいろな市民団体等での取り組みがありますので、分科会ではそれほど深く討議したわけではありませんが、各教団で取り組んでいる身近な問題について話し合いました。

たとえば富士のお山でございますが、あそこの植物の生態系がここ数十年で随分変わったこと。またそこに住んでいる動物たちの生態が変わってきたということ。

あるいは、日本の風景には松が必要欠くべからざるものとしてあるわけでありますけれども、その松枯れがひどいこと。それは松の生命力が弱っているわけでありますが、その松から何が見えるか、というようなことについていろいろ話し合いました。

結局そういうことを話し合って出てきた結論が二点ございまして、それは、生態系の破壊ということと、自然の循環のリズムの破壊ということ、この二点に集約できるのではないかということであります。

そしてさらに環境破壊と言った場合、ある時期までわれわれは、生活環境の破壊というようなことで考えてまいりました。これは、われわれ人間の生活の安全を守るという意味での、生活環境の破壊ということで、環境汚染というような言葉で言われたこともあるわけです。

しかしながら現在は、もうすでにそういう状況をはるかに超えてしまって、地球環境の破壊という段階に至っているわけで、この現実をわれわれは厳しく受けとめなければならないということを分科会として確認いたしました。

次に私どもの分科会といたしましては、そうした環境破壊の原因はどこにあるのだろうか、ということについて話し合ってみました。もちろん、一つの原因で環境破壊が起きてきたというわけではありません。

先般、中国やフランスが実施しました核実験などは、いろいろな立場や意見はあるにしても、環境という視点から言えば言語道断の行いであると言えるわけであります。

そういうことも考えに入れて、最も大きく考えなければならないことは何か。それは、技術革新を背景にした工業社会が無制限に展開してしまい、そのことによって環境が破壊され続けてきたということであります。先ほどの井上先生のご講演にもありましたが、経済至上主義などと両々相まって、このことは進んできたわけであります。

科学というものは、本来理性的なものでありましょうし、ある意味では宗教的な真理にも通じるものがあると思うわけでありますが、科学の論理が生活に活用されるときには、必ず技術というものを伴うわけであります。

そしてその技術は、常に政治とか経済、これは企業などに代表される経済活動でありますが、そういうものによって利用される。それはすなわち、世俗の欲望とでも言うべきもによって利用されるという現実があるわけでありまして、われわれはその欲望というものに対して、常に厳しい目を向けてゆかなければならないという問題が浮かんでまいりました。

すなわち環境破壊の原因として指摘されるべきは、欲望に支配された技術革新、そしてそれを背景にした工業社会というものであって、特に大量生産・大量消費という社会で豊かさを享受してきたわれわれは、人間はもちろんの多くの生命が疎外状況に置かれている現実を、直視しなければならないということであります。

さて、そのような認識のもと、次にわれわれとしてなすべきことは何かという問題に入るわけでありますが、ここでは分科会において話し合われましたことを、何点かにまとめて申し上げてみたいと思います。

まず第一に申し上げたいことは、このシンポジウムで話し合われたこと、あるいは提起された課題を、各教団が持ち帰るということであります。どのように持ち帰るかはそれぞれの教団に任されるべきでありますが、持ち帰った上で、教派連を構成するそれぞれの教団が、それぞれのやり方で、警鐘を鳴らす。このことがまず最低限必要なこととして、われわれの分科会では話し合われました。

次に第二点は、既に多くの教団で環境問題に対する運動と申しましょうか、活動が進められておりますが、そうしたいろいろな取り組みについて、情報交換の場を設ける必要があるのではないかというアイデアが出てまいりました。

そしてその場には、女性の先生に入っていただくということ。教派連加盟の教団にはかなりの女性講師がおられるわけですが、これからはもっともっと女性に活躍してもらわなければならないというアイデアが出てまいりました。

第三点は、環境問題に取り組む場合の根底に、地球は生き物である、という共通認識を置くことはできないかということであります。少なくとも地球というものを一つの生命体として考えて、いろいろな活動をしたり情報交換をしようということであります。

第四点は、私どもは、それぞれの教団の特徴と独自性を保ちつつ、教派神道連合会を組織しているわけでありますが、どの教団にも通じると思われる、天地自然への畏敬の念を忘れないということ、そして感謝の心を大切にするということ、そして更に、人間の欲望によっていのちを奪われたものを慰霊するということであります。

第五点は、いま申しました、畏敬の念、感謝の心、慰霊の営み、と同時に、祓ということも忘れてはならないということであります。ただしこの場合、少しく注釈がつくわけでありまして、いわゆる不浄や汚れを祓うということではなく、心を祓うということであります。

例えば先ほど申しました、技術や経済活動にまとわりつく欲望の心を祓うというようなことが、宗教的になされてゆかなければならないであろうということであります。

第六点は、これも各教団共通の精神であると言っても差し支えないと思いますが、寛容の精神によって、共存・共生の思想を教義的に深めるということであります。

国家や民族を超え、人間と他の動物との区別を超え、更には動物や植物の垣根を超え、共に生き、共に生存する可能性を、宗教的に常に求めてゆく努力を惜しんではならないと思います。

最後に第七点目でありますが、これは教祖・開祖への回帰ということであります。私どもには、それぞれ教祖様、開祖様と申し上げる方がおられるわけでありまして、そのもとに帰るということであります。

江戸時代、明治時代、あるいは大正時代に、多くの艱難を乗り越えて一教をお立てになり、多くの人々を救ってゆかれた教祖様、開祖様が何をなされたかと言いますと、これは一方で時代社会を鋭くえぐる文明批判をされると同時に、一方で人間の生き方をえぐる民衆批判をされたわけであります。これは自己批判と言ってもいいわけでありますが、今日、私たちはそういう精神も忘れてはならないという点が浮かび上がってまいりました。

以上、われわれがなすべきこととして七点申し上げましたが、私どもの分科会といたしましては、たとえば西欧文明との比較検討などに論議が至らなかったことなどをお断りして、環境の報告を終らせていただきます。(拍手)